ヒストリー

第一節 黒船の渡来

銀杏並木の美しい日本大通りと海岸通りが接する大さん橋入口近くに横浜開港資料館(旧イギリス領事館)がある。この地域は今から百数十年前、日本を世界の中に引き出させた歴史的な舞台となったところである。今、横浜村駒形とよばれた時代の姿を求めることはできない。まして、アメリカ使節の強い態度に押され、鎖国か開国かで悩んだ幕府の苦しみを知るすべはない。応接場となったこの地の近くにあった玉楠の木は、大震災のため枯れたが、若木は今もなお横浜開港資料館旧館の玄関の前で茂り続けている。

(一) ペリーの来航

四隻の黒船

1853年7月8日(嘉永六年六月三日)、浦賀沖に、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが率いる4隻の軍艦が現れた。浦賀奉行の早馬は「黒船現わる」の知らせをもって江戸に走った。急ぎ駆けつけた武士によって、海岸線は警備され、夜にはかがり火をたいて、黒船の動きを監視した。今までにも、外国船は姿を見せたことはあったが、今回のように艦隊を組み、砲門を開き、いつでも戦える状態で現われたことはなかった。それに加え、黒々とした蒸気船の巨体は、見る人々を圧倒してしまった。

アメリカのアジア進出

アメリカでは19世紀にはいって工業が発達し、機械による生産が増大した。アメリカにおける産業の発達は、海外市場を求めてアジア大陸への進出を促した。しかし、アジアの中心、中国へ進出するためには、大西洋を横断し、アフリカの南端を回り、インド洋を経由しなければならず、イギリスなどと対抗するには地理的にも不利な条件であった。当時、アメリカの太平洋岸は捕鯨漁場として開かれていたこともあって、太平洋を直接横断する航路が考えられるようになった。だが、当時の船では途中で、どうしても石炭や水などの補給をしなければならなかった。太平洋岸の中継地として、日本が最良の場所であった。使節ペリーの任務は鎖国政策をとっている日本の政治を変えさせ、港を開かせることにあった。